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2009年9月24日 (木)

幸せ

朝起きて、四方拝の後作れる歌

   気がつけば
   光の中に我はおり
   四方八方
   宝に満つる

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2009年9月23日 (水)

黄檗染めの小裂

 この夏、教室の生徒さんに男のお孫さんが誕生した。
昔から男の子が生まれるとうこん染めの布を、女の子が生まれると紅花染めの布を贈る慣しがある。
男の子は女の子に比べると赤ん坊の時、感染する割合が多い。うこん染めの布は男の子の体をばい菌から守る役目を果たす。また、この黄色い布をあかちゃんがちゅばちゅばすると、体にその成分が入り、丈夫になる。昔の人の知恵はすごいな〜と思う。
 私も、手紡ぎの綿糸で小さな小裂を織り、黄檗で黄色くそめてこの方のお孫さんに贈った。今、うこんはまだ収穫の時期ではないので、かわりに黄檗を使った。うこんにも黄檗にもベルベリンという黄色色素の成分がある。いつもうちの親方が言っていることなのだが、色は単に色に非ず人を守るためにある、というのは本当だと思う。
 飾りにせず、あかちゃんの頭の下に敷いたり、授乳の時に口をふいたりして、大いに実用として使っていただきたい。丈夫に賢く大きくな〜れ。

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2009年9月22日 (火)

葛花色

 スヴェトラーナさんの帽子に、もう少し秋らしい色彩を加えて華やかにしたい!
そう思って、今盛りの葛の花色を出してみた。今河川敷や山に行くと、葛の花が目を楽しませてくれている。藤の花を逆方向に天に向かって咲かせているような様子で、色は紫味のピンク、香りも良い。
 この色を出すには、まずラックダイで濃く染め付け、その後銅とアルミの混合媒染をかける。ねらった色が出せたので、ほっと一息。うれしかった。
 葛花は、秋の七草にもとりあげられている由緒正しい花である。これを乾燥して煎じると、葛花湯という漢方薬になる。二日酔いによくきくとのことで、水戸黄門の常備薬でもあった。黄門様は、結構はちゃめちゃな人で、美食家でお酒も毎晩のように飲んでいたそうだ。それと、わたしのように更年期を迎えた女性にも良いらしい。能の血管を広げてくれるとか・・・。
 さて、もう一色は、タマネギの皮と鉄で渋めのモスグリーンにする予定。秋の葛の葉の色である。

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2009年9月21日 (月)

葛布のハーフコート

 今年の初夏、有名な建築家S氏の紹介で、洋服のデザイナーで仕立て師でもあるTさんと知り合いになった。そこで、さっそく葛布の服をデザインしてもらうことになった。
 小幅の布を和服の裁断のように無駄なく裁断し、しかもキュートでエレガントな設計である。用尺も出してもらい、布作りが始まった。いつものように仕上げに糊がけをして出した。ところが、デザイン画に描かれていたような丸い流れるようなラインが出ない。どうも横に張り出す感じがある。それもそのはず、葛布は横方向の張りが強いのだから。そこで、次には糊がけをせず高温で染色してシルクのセリシンをあらかた落として柔らかくするという方法を試みた。結果は上々.Tさんも袖の裁断方向を逆にしたり、ウエストラインを少し絞ったりと色々試行錯誤してくれた。

服作りは、私にまた新しい刺激を与えてくれている。洋服地は、着尺や帯とは全く違うテクスチャーを求めているのだ。和服は多少張りがあっても襟と帯で押さえて、形を作ってしまうことができる。しかし、洋服は肩で着るので、自然に下に落ちる姿と多少の柔らかさが必要なのだ。葛の光沢を生かしながら柔らかさも出せる布地の設計—それが今年の冬の私の課題である。

 過去にも何着か葛布で洋服を作ってみたが、どれも納得できなかった。まだ、布作りが未熟で変に固執してしまっているところがあり、なかなか曲線ではさみが入れられなかったのである。しかし、今回有能なデザイナー兼仕立て師であるTさんと出会い、肝がすわった。切るなと継ぐなとどうにでも料理して下さってかまわない。洋服には洋服の作り方やルールがあるし、布地は人に着てもらってこそ生きるのだから。
 もの柔らかで、いつもニュートラルな感じのする若いTさんとの出会いは、布を切りたくない!という私の執着をいつの間にかほどいてくれている。

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2009年9月20日 (日)

縁側は織りのステージ

 日本家屋の縁側は極端に細長くて広い。それを外の自然界と中の人間界との緩衝地帯だという人もいれば、冬年寄りがひなたぼっこするためのものだという人もいる。また、外国人にはこのスペースが、建築上何ためにあるのか理解できないそうだ。しかし、そこに機をおいてみると答えは自ずと出てくる。
 昔の機は、縁側の巾にちょうど良いサイズだし、経糸を巻くときにはこれ以上都合の良いスペースは他にはない。きっと昔の女性はみな、家族の衣類をこの縁側で織っていたに違いない。今の和風建築は女の仕事場の名残を、それと知らずに継承しているのである。
 
 私も最近家の縁側で機仕事をしている。写真は、縁側いっぱい使って経糸を巻いているところ。床板の目が機の中心と巻き取る糸束の中心を合わせるのにとても役に立つ。また、機を正確にセットするのにもこの床板の目が良い目安になるのだ。
 巻き取りに疲れれば、すぐ外の庭にいるパッちゃん(パティ ゴールデンレトリバー ♀ 13才)と戯れ、癒してもらうこともできる。おかげで今日の作業はとてもはかどった。

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2009年9月19日 (土)

アシナガに刺された!

 工房の軒先に、いつのまにか足長蜂の巣がかかっていた。アシナガは、結構大きな蜂で、長い足をだらりと下げて飛ぶ姿が特徴的だ。
 10年くらい前、一度何かの蜂に刺されてひどい目にあった事がある。その時、ある人から「二度目に刺されると死ぬ」と言われていたので、私は蜂がとても怖いのだ。

 ところが先日ふと見ると、アシナガが事務所の天井に2匹はりついているではないか!
刺されては大変と親方と二人でほうきを使って外に追い出した。「ああやれやれ、これで大丈夫」と思って手を下げたとたん、左肘の内側にチクッときた!何とアシナガは、花柄の私のワンピースに止まっていたのだ。
「怖がるものは、皆きたる」ああとうとう刺されてしまった・・・・。
これで私も終わりかと思ったのだが、何と言うこともなく1週間もすれば腫れも引き、すっかり治ってしまった。すぐにアロエベラを塗り、氷で冷やしたのも良かったのだろう。

私、まだ死んでいません! 90過ぎまで生きます。

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2009年9月17日 (木)

潔史の秋

 先日息子の潔史が、サッカーの試合で1試合3ゴールを決める(ハットトリック)という快挙を成し遂げた。そこで一句。

         いつのまに
           我背を超えて伸びゆくや
         ハットトリック
           潔史の秋

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2009年9月16日 (水)

天岩戸神社

 天岩戸神社は、天香具山の南麓にあります。神社の前に広がる集落を南浦町と言います。現在、このあたりには水辺らしきものは何もないのに、なぜこの集落は南浦と呼ばれるのでしょうか?
 答えは、親方が訪ねた柏原考古学研究所付属博物館にありました。そこのボランティアのおじさんの話によると、昔はこのあたり一帯が沼地だったそうで、藤原宮は沼を3mも土盛りした上に建てられたものなんだそうです。こんな広いところを3mも嵩上げして整地するとは、大変な土木工事ですね。当時ようやく国家としての形を整えつつあった大和朝廷の威信をかけた大事業だったはずです。
 藤原宮一帯が沼だったとすると、ちょうどその南に当たるところを南浦と呼んだのも、頷ける話です。
 そうか、昔ここは水辺だったんだ!!
 
天香具山は、山というよりは小高い丘といったほうがふさわしいかもしれません。その頂上には舒明天皇(629〜641 飛鳥時代初期)のこんな歌が記されていました。
 大和には
 群山(むらやま)あれど
 とりよろふ
 天の香具山
 登り立ち
 国見(くにみ)をすれば
 国原(くにはら)は
 煙(けぶり)立つ立つ
 海原は
 鴎(かもめ)立つ立つ
 うまし國そ
 蜻蛉(あきづ)島
 大和の国は

 ここで詠まれている大和というのは、大和三山に囲まれた狭い範囲(飛鳥をふくむ)だと思います。当時大和朝廷の勢力の及んだ範囲はどのくらいだったのでしょうか?西は太宰府を中心とした九州北部、東は関東一円までといったところでしょうか。私の住んでいる金谷は、当時の都から見れば大変な辺境の地であったはずです。(たぶん当時は大井川の川の中。ここの土地が出現するのは、天正の瀬変え16世紀末による)東京だってまだその当時は海のど真ん中だったでしょう。
 大和にはたくさんの山があるけれども、その中で天香具山は国見をするために天皇がお立ちになる特別な山だったのであります。おそらく、一般の人は立ち入ることのできない聖域だったのではないでしょうか。
 煙立つ立つ、というのはご飯支度の時に竈から登り立つ煙のことで、それだけ民が豊かであることを意味します。
 かもめ立つ立つは、かもめがたくさんいること、つまり鴎が食するための魚がたくさんいて、これまた民の食料が豊かであることを指します。
 うましは、「美しい」という意味の古語。
 四国、九州、山陰山陽、大和地方一帯、当時これらを総称して蜻蛉島と呼びました。
なぜとんぼの意味の蜻蛉島といったのかは不明です。(誰か知っていたら教えて下さい)
でも、当時は朝廷がその勢力を及ぼした國を、いくつかの島であると認識しており、船で行き来していたということがわかります。おそらく昔の交通手段は、船が主で、陸路は難儀だったのではないでしょうか。
 舒明天皇は、天香具山の頂上からまさしく海原をみているのであります。しかし、現在香具山からは海原は見えません。舒明帝のころは、まだ埋め立て前だったので、鏡のように広がる沼地や水路がありありと眼前にあったのではないでしょうか。

 この歌は、実際は見えないものを言葉に出して歌い上げることによって現実化させようとする言霊信仰の歌だともいわれています。天皇には、そうやって國の安全と豊かさを祈る役目があることを認める一方、私はやはり舒明帝の眼前には青々とした海原が広がっていたと思えてなりません。

今でこそ、奈良はちょっと交通が不便ですが、当時は水路が相当奥まで張り巡らされており、物資の行き交う一大通行要所だったことが分かっています。


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