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2009年3月27日 (金)

娘の卒業式

3月24日は、娘の大学の卒業式だった。
入学式は、息子の中学入学と重なって行ってやれなかったので、この度は是非行って娘の晴れの姿を祝ってやりたかった。
私は、半年も前から卒業式にはかせる袴の製作に取りかかっていた。もちろん葛の袴である。
卒論で西洋史における色をテーマに選び、壁画に描かれたマリア様の衣装の赤に注目した娘のために、私は糸を赤く染めた。経の絹も赤、緯の葛も赤。染めに使ったのは黄檗とラックダイである。よりいっそう鮮やかで強い赤を出すために、先染めで糸から染めた。同じ赤でも、後染めで白布を染めるよりも先染めにする方が深い色が得られる。
写真は、着付け終わって卒業式に出るまでの間、自分の部屋で、お世話になった先輩宛に手紙を書いているところ。
中振り袖は、私のおばあちゃんの形見の品。母が12歳の時に他界しているので写真でしか会ったことはない。おそらく、祖母が嫁入りの時に持って来た物であろうから、今から70年程前のものであると思われる。紫の綸子にもみの裏が映って、艶っぽい色になっている。なんせ古い物なので、着付けの時、美容師さんにあんまり強く引っ張らないように気を使わせてしまった。
赤い葛袴は、太陽の下でみるとよけい美しかった。下鴨神社で行われている蹴鞠の時、鞠人たちが着用しているのがこの葛袴である。
日本広しと言えど、葛袴をはいて卒業式に臨んだのは私の娘只一人だろう。
織り人である母親の面目躍如! 私から娘への精一杯のエールである。


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2009年3月20日 (金)

葛布道中着の復元

仕上げ

 仕上げには、毛羽取り、糊がけ、砧打ちが含まれる。染め上がっただけでは布として不完全である。このような仕上げを経て、初めて人に見せ得る布に成長するのである。
以下、それぞれの行程を細かく見ていく。

毛羽取り

 葛布は緯糸の性質上織り上がった布の表面に細かい葛の毛羽がいく本も飛び出しているのが常である。この毛羽を毛羽取り専用の鋏で丁寧に根元から切り取る。鋏は、先代の経営者が特注した物であろうか、柄の部分がとりわけ長くていかにも毛羽を取りやすい形をしている。この形の鋏はおそらく他の地方には無いであろう。遠州の葛布屋専用のしけとり鋏と言えよう。
 こうして布の表裏両面の毛羽を丁寧に切り取る。「製葛録」では、布の表面の毛羽は、織りながら機にかかっている時に取る、と記してあった。機下ろしした後、丁稚のような人物が鋏を使って布の反対側の毛羽を取っているところの挿絵が描かれている。

糊がけ

 糊の作り方は先の章で詳述したので、ここでは省く。刷毛に糊を含ませ、鍋の口で軽く余分の糊をしごいて落とす。そして、この刷毛で布にまんべんなく糊をふくませ、含ませたところから平らな棒で布に叩き込む。こうすることで、ただ刷毛で塗るより、塗り斑のない布になる。終わったら、布の両端に張木をかけ、布端のあちらとこちらで柱や立ち木などを利用して布をぴんと張らせて固定し、乾燥させる。

砧打

 乾いた布を巻いて円柱状にする。平らな、硬くて粘りのある石の上でこの布を少しずつ引き出しながら、木槌で布を強くたたいていく。打ち終わった布は手前側に、向こう側の布とは反対巻きに巻き取る。片面が終わったら今度は反対面に砧打をする。ちなみに、砧とは台にする平らな石のことを言う。布は、次第に柔らかくなり、ぬめりと光沢が出てくる。

アイロンがけ

 最後に、布目を調えるように高温当て布なしでアイロンがけをして、全ての行程を終わる。

終わりに
 
 これで道中着の復元の全てを終わるが、次の行程で縫製された実物の道中着を着てみることで、新しい模索がはじまると思っている。雨や風の日、道中着は寒さや水分から体を守ってくれるだろうか。着てみた感じはどうだろう。武士らしい格好の良さが現れるだろうか。また、布の強度は十分だろうか。糸の作り方にもう一工夫いりはしないだろうか。葛布道中着製作の完成は、着るという観点からの新しい研究の始まりであるといえる。

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2009年3月19日 (木)

葛布道中着の復元

染色

 筆写の見たところ、染めは藍の下染め、上に渋木をかけその上から鉄媒染をかけたものではないかと思った。先にも述べた通り、この染めかたは別段特別の物ではなく、当時の武士に好まれる青勝ちの黒で、憲法染めと呼ばれ極普通に行われていた。深津氏の調査では、鉄、藍が検出されている。だが、残念ながら渋木と一致する波長が確認されなかったので、ここではそれ以外の染め材を任意に決定し、使わせていただいた。使った染め材は、藍、矢車玉、カテキュウ、ラックダイ、鉄である。藍は、沖縄の琉球藍を取り寄せて発酵建てしたもの、矢車玉は近くの山で数年前採取した榛の木の実を乾燥させておいたもの、それ以外は購入したものである。
 カテキュウというのは、ネムノキ科のアセンヤクノキの葉のついた枝や樹皮を煮詰めて乾燥させ、暗褐色の塊としたものである。アセンヤクノキは、主に東南アジア熱帯地方で栽培されており、江戸時代すでに使われていた。日本では健胃薬として古くから「阿仙薬」の名で知られている。
 ラックダイというのは、東南アジアのネムノキ科の樹木に寄生する昆虫の分泌物を精製して得られる色素で、パウダー状になっている。精製されていない分泌物の塊が、紫鉱の名で正倉院に納められている。当時は染材ではなく、薬として納められた。ラックダイは、現在も食品や化粧品として使われており、タイには日本の工場がある。
 それでは、染めの実際を以下に詳しく述べる。
被染物 葛布1反(道中着2領分)
経糸 和綿手紡ぎ糸
緯糸 葛手つぐり糸
被染物の巾 39cm
被染物の丈 16m
被染物の重さ 840g
1 被染物全体に水を浸透させた後、藍瓶の中で5分静か  に繰り回し、藍の中色に染める。瓶底に布がつくと、  瓶底に沈んでいる灰や澱の影響をうけ、白っぽい汚点  になってしまうので、染める前に瓶の底にざる等を沈  ませて、布が付着するのを防いでおく。
2 瓶から引き上げて、物干にかけて空中発色させる。藍  は、空気中の酸素によって酸化され、藍色を呈する。
3 数日後、藍染めをした上にタンニンを含む染料を浸染  する。この場合は、矢車玉とカテキュウを使う。先   ず、被染物の10%のカテキュウの塊を紗袋に入れ   て、少量の水を沸騰させて煮とかす。カテキュウの染  液が入った鍋に被染物の100倍の水を加えて昇温   し、60℃以上の液温を保つ。この染液の中に被染物  を浸し、静かに繰り回して染める。染め斑を防ぐた   め、絶えず被染物を静かに動かす。頃合いを見て、火  を止め、そのまま半日放置し、時々様子を見ながら被  染物を撹拌する。被染物を鍋から引き上げ、物干にか  けて干す。
4 硫酸第一鉄を被染物の10%計量し、60℃以上のお  湯の中にとかして、この中で被染物を媒染する。染め  斑を防ぐため、絶えず被染物を動かし続ける。布は、  だんだん黒みを帯びてくるが、この段階ではまだ青み  の方が強い。鍋の温度が下がる迄布を浸け込んでお   く。もちろん、時々様子を見ながら撹拌することは言  うまでもない。
5 翌日、矢車玉の染液に浸す。矢車玉を乾燥させたもの  約500gを紗袋に入れて煮出す。沸騰したら、20分  程煮だし、第一液とする。前回の半分に水量を減ら   し、同じように20分程煮だして第二液とする。この  ようにして、繰り返し5~6回は染液を取り出すことが  出来る。ここでは第一液と第二液を合わせた物を使   う。こうやって作った染液の中に被染物を入れて20  分以上撹拌し、様子を見ながら染液の中に布を放置す  る。時々、布を撹拌して斑になっていないかどうか点  検する。半日程このように浸染し、鍋から引き上げ、  その日のうちに乾かす。
6 翌日4で行ったように鉄で媒染する。布は、徐々に黒  みを増してくるが、この段階ではまだ緑味勝ちでる。
7 3で行ったのと同様に新しい染液を作って浸染する。  その日のうちに鍋から引き上げ、乾かしきる。
8 4、6と同様に鉄で媒染する。その日のうちに乾燥さ  せる。この段階でもまだ緑味勝ちでなかなかしっとり  した黒にならない。 
9 ラックダイパウダーを被染物の10%計量し、液温6  0℃以上の染液を作る。この中に8の被染物を入れて  撹拌しながら染める。被染物を染液に入れたまま、翌  朝液温が下がる迄放置する。
10 鍋から9の布を引き出し、物干竿に干して、発色を  見る。この時ようやく求めていた色に近似できたこと  を知る。

 これだけ面積の大きい布を後染めで斑なく単色染めにすることは難しいものである。染め斑をなくすためには、このように始め薄い色から付けていき、徐々に濃くして上へ上へと色を重ねていけば良いのである。一回で濃く染めようとするとたいていは染め斑を作ってしまう。しかし、このように青系、黄系、赤系の色素を徐々に重ねていくことにより、色に厚みが増し、複雑で美しい黒になるのである。

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2009年3月18日 (水)

葛布道中着の復元

捨て織り
 
 始めに苧柄を1本緯糸に入れて経糸を安定させる。次に、太めの綿糸を緯糸として織り進み、この糸で織られた布が女巻きに一巻きするまで続ける。これを捨て織りと呼ぶ。こうすることによって経糸の張力が安定し、織り幅も決まりやすくなる。

本織り

 経糸と同じ綿糸の端を1m程残して1cm織り、最初に残した端糸で織り始めを始末し、解けないようにしておく。次に、つぐりを水で濡らし、両手のひらで挟んで形を崩さないようにしながら軽く水気を絞る。つぐりを舟底型の杼に入れて糸目から糸端を出し、緯糸として織る。布巾の織り縮みを防ぐため、緯糸は打ち込まれた糸に対して30°位の角度で入るように糸量を保つ。
 筬打は比較的強く打ち込む。緯糸の目を詰まらせ、布に強度を出すためである。
 10、11月は織りがスムーズに行えたが、同じ設計で1、2月の冬に機にかけたものは製織中に経糸がよく切れて、誠に織り辛かった。空気が乾燥しているためである。静岡の11月はまだ夏の終わりといっても良いくらいで、湿度も60%程度はあるが、さすがに冬になると湿度30%を切ってしまう。すると、途端に経糸は言うことを聞かなくなってしまうのだ。「製葛録」の挿絵を見ると、母屋とは別棟の納屋のような部屋で女性が葛を織っているところが描かれている。この部屋はおそらく土間で、足下からの湿気を十分に取り込める工夫があったに相違ない。

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2009年3月17日 (火)

葛布道中着の復元

経通し 

 ステンレスで出来ている綜絖の穴に1本ずつ経糸を順番に入れていく。経糸の束は機から吊るしておき、それを4〜5束に分け、最初の通し始めの束以外は抜け落ちないように片輪結びをしておく。綜絖の穴が、吊るしたあや棒の真ん中より気持ち上になるように位置を修正する。また、作業者の目線が、綜絖の穴とあやの両方が一度に確認できる位置であるよう、座る高さを調整する必要がある。この作業は綜絖通しという、先が鈎状になった金属製の器具を使って行う。1寸巾程通し終わったら、抜け落ちないように手前側に片輪結びを作る。
 現在当工房ではこのようにステンレス製の綜絖を使っているが、江戸時代はおそらく糸綜絖である。後者の方が経糸にかかる負担が少なく、織りやすかったのではないだろうか?次回は、糸綜絖を作って再挑戦する機会を得たいと思う。

筬刺し
 
 綜絖通しが済んだ経糸を今度は筬に刺していく。この作業は、薄いへらのような形で、先端が中央に向かってVの字に切れ込みの入った金属製の「筬刺し」という器具を使って行う。まれに、手織り屋仲間のうちで、自家製の竹で作った筬刺しを使っている工房がある。江戸時代も、自分で使いやすいように道具を工夫したものであろうか。
 筬は、織り幅を確保し、かつ緯糸を打ち込む道具である。江戸時代は全て竹筬であったはずだ。当工房にも竹筬は若干残っているが、筬目が違っているのでこの場合は使えない。従って、近代的なステンレスの筬を使うことにする。
 この道中着は、片羽といって筬目に1本ずつ経糸が通っている。若し、通し間違って1本空いてしまったり、逆に1目に2本入ったりしてしまうと織り傷になってしまうので、注意して通さなければならない。すなわち、1寸程通し終わるごとに片方の綜絖をあげて、通し間違っていないかどうか確認するのである。通し間違いがあった場合は、そこから後の筬刺しを全てやり直さなければならないので、面倒でも1寸ずつ確認する方が確かである。
 大体の織物は耳糸を作るが(布の両端にあたる筬1目に2本の経糸を入れて丈夫にすること)、この道中着には耳糸が確認されないので、経糸全てを片羽にする。筬刺しも綜絖通しと同様1寸終わるごとに裏側で片輪を作り、抜けないようにしておく。

前付け
 
 筬刺しの終わった経糸を女巻き棒に取り付けた力布の先端にあるステンレス棒に結びつけていく。これに先んじて、経糸が機後方の横木から綜絖を通り、筬の真ん中を通り、女巻きに達する迄一直線であるように調整する。また、結びつける順序は女巻きの棒に対して、最初に真ん中、順次左右交互に中へと進ませる。最初はきつめに結び、後になるほどゆるく結ぶ。そうしないと最初に結んだ物ほどゆるんできてしまうからである。
 次に、踏木を踏んでその時に出来る開口が筬巾に合うように調節する。

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2009年3月16日 (月)

葛布道中着の復元

経巻き
 先ず、粗筬通しを行う。粗筬は、木枠の上部が取り外しできるようになっているもので、1cmごとに筬目が仕組まれており、経巻き用に大変便利な道具である。総経糸本数441本で通し幅1尺5分(約39.7cm)なので、粗筬1本には11本の経糸を通せば良いことになる。ただ、江戸時代に粗筬というものがあったかどうかは不明である。或は、普通の筬を粗筬代わりに使い、最後には経糸を全て抜き取っていたかもしれない。今でも、手織りの綿織物の人は、この方法をとっているようである。
 粗筬通しがすんだ糸を機の後方に持っていき、ちきりに取り付ける。この時、機を移動させ、ちきりの後ろに7〜8mの空間が出来るように物を片付ける。この空間を使って経糸をちきりに巻いていくのである。
 ちきりには、力布が取り付けてある。力布の端は輪になるように縫ってあり、輪の間隔が1寸になるように鋏で切り込みが入れてある。輪の中にはステンレス製の細い棒が入っているので、この棒に、幅がちょうど通し幅くらいになるように塩梅して経糸を結びつけるのである。これに先んじて、鎖状になった経糸の束をほどいて7〜8mにも延ばし、延ばしきった経糸の結び目の上に5Kg程の石の重しをしておく。(糸が汚れないように余り紙などで糸束を保護した上から重しをのせること)延ばした糸束を結んであるところは全て解いておく。経糸をステンレス棒に結び付ける時は、石の重しから棒迄伸びた扇状の経糸の流れがあたかも川の流れのように淀みが無く、張り具合も一定であることに注意する。
 いよいよ、経糸をちきりに巻き取っていく。ちきりを機に据えたまま、ちきりの両端にあるつばのどちらかを手で回して巻き取る。粗筬の中心が常に機の中心に位置し、ぶれていないことを時々確認する。力布が終わる迄はそのまま巻き付け、糸がちきりに達すれば機草(はたくさ)と呼ばれる厚紙をちきりと経糸の間に挟んでいく。昔は厚紙ではなく、大麻や苧麻等の苧柄を使ったので、この名が付いた。巻き取るにつれ、あや棒は順次後方に移動させなければならない。しかし、手紡ぎの細番手綿糸は互いに絡みやすく、そう簡単には動いてくれない。この動作をやりやすくするためには、経糸に強い張力をもたせることである。
 こうやって順次経糸をちきりに巻き取り、ちきりから2mのところ迄きたら、ちきりの両端をひもで縛って固定し、経糸が緩まないようにする。残りの経糸は経通し(経糸を綜絖に通すこと)しやすい位置に吊るす。

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2009年3月15日 (日)

葛布道中着の復元

製作の実際

 深津氏が調査した結果、道中着1領に必要な布地は、幅36cm、長さ6mであった。そこで、2領分を一度に織ろうと、次のように設計した。

通し幅 1尺5分  (織り幅1尺の見込み)
筬密度    42/寸  (片羽)
整経長 17、1m
経糸本数 441本
経糸総長 7540m
緯糸に必要なつぐりの量 700g

この設計に従って以下のような作業を行った。

整経
整経とは、設計通りに経糸の本数を揃え、それを決められた長さに、乱れることなく経る作業である。通常整経台という杭が何本も打ってある長方形の枠を使う。整経は1本だけで行うことも出来るが、能率が上がらないので4本以上まとめて行うことが普通である。ここでは4個の木枠を使って経ることにする。整経法には、環状整経と往復整経がある。環状整経は、1周が経糸の長さになり、ちきり(経糸を巻く棒。機の後方に設置する)にも女巻き(織られた布を巻く棒)にも端が切られた経糸を結んで固定することになる。往復整経はちきりになる側に達すれば、ターンして行きと同じ道を帰ってくるやり方で、ちきりには経糸の輪を通すことになる。ここでは、前者の整経法を採ることにする。
 環状整経では、手前右端の杭からスタートさせる。始めに、巻き尺などを使ってスタート棒から如何に経れば目的の長さになって再びスタート棒に戻ってくることが出来るかを決める。この時、どうやっても目的の長さにならないときは、補助の杭を臨時に設ける。道筋が決まれば、あまり糸等で経糸の道筋が分かるように巡らせ、ガイドの役を持たせる。
 次に、整経台の向こう側に綿糸を巻いた木枠を4個等間隔に設置する。木枠の真上に表面が滑らかな棒をわたし、木枠から真上にあげた綿糸がその棒の上を通って経る人の手元にくるようにする。こうすることによって経糸同士の絡みを防ぎ、木枠から糸を引き出しやすくすることができる。木枠の周囲を回転しながら糸が引き出されることにより、必然的に引き出されるごとにあまい撚りがかかることになる。木枠上の糸の回転が、実際にかかっている経糸の撚りを阻害しない方向に木枠の上下を修正しなければならない。つまり、この道中着の経糸はS撚りであるので、経糸は、木枠の周囲を左周りに回転しながら引き出されるように木枠をセットするのが正しい。次に、4本の経糸の端をまとめてスタート棒に結びつけ、いよいよ経を経る動作を開始する。スタート棒からやや離れた作業者の正面あたりに特別な杭を2本見立てる。これは、「あや」を取るための棒で、この2本の棒の間を経糸が交互に×印を作るように重ねられることで、糸の順番を正確に見いだせる。この×になっている部分を「あや」と呼び、織物では大変大事な部分である。さて,作業者は4本のあやを作るために、右手の人指指と中指を交互に使って4本の経糸をすくい、あやを確保した後2本のあやとり棒に糸を差し込む。その後、経糸4本を一緒にして、ガイド糸に沿って経ていき、最後にスタート棒に戻る。この場合、総経糸数が441本なので、この動作を110回繰り返し、最後に残り1本だけ経ればいい訳である。
 経終わった経糸の束を約50cmごとに余り糸等で縛り、乱れを防ぐ。あやには織り幅よりもやや長めのあやひもを通しておく。そして、スタート棒の近くで経糸の束を切り離す。経糸の束を乱さず運ぶために、あやの反対側の端から糸束を鎖状に手で編んでいき、風呂敷等で包んでおくとよい。

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2009年3月14日 (土)

葛布道中着の復元

仕上げ

 道中着は、表面が滑らかで艶があり、しかも布の裏側迄水を吸収しにくいという特徴がみられる。このことから、道中着は、布の段階で表面の毛羽を取り除き、撥水性のある何かで加工された後、砧打を施されたのではないかと推察される。撥水性のある何かとは、何であるのか。大蔵常永「製葛録」の挿絵には、店の使用人のような人物が三味線のバチよりも一回り大きなもので布の表面に何事かしている図が描かれており、解説には「艶つけている図」とある。三味線のバチのようなものは何で出来ているのであろうか。木か、陶器か、象牙か。これで布の表面をただこすって艶を出しているのであろうか。或は、このバチ状のものの布に当たる部分に、例えば油や蜜蝋のような撥水性のあるものをつけて塗布していると見ることは出来ないだろうか。現段階では推論の域を出ない。
 ちなみに、当工房のある旧金谷町小夜の中山にある休憩所には、丁葛という名前で、古風な紙包みに入った四角い葛粉の固まりがおいてある。聞けば、一反の葛布を仕上げるのにちょうど良い量の葛粉であるところからこの名がついたという。計量すると約40gで、当工房で作る葛布の長着一反約13mの重さは約800gであるところから布の重量の5%の糊を使うことが分かる。経験から言うと、5%はかなり固めに仕上がるが、その後の砧打で柔らかくしたのであろうか。あるいは、1反は裃袴のセット一式約17mくらいを指すのであろうか。この答えを出す作業も今後の課題となる。
 俗に「しけとり」と呼ばれる布の表面に出た余分な毛羽を鋏でもって取り去る作業は、今の葛布屋は誰でも行うことであり、それ専用の鋏も残されている。ただ、この道中着は葛糸の有様がみごとであることから、毛羽はそれ程出なかっただろうと思われる。

 以上が復元しようとしている道中着を観察、調査した結果分かったことである。
 では次に、製作の実際について述べる。

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2009年3月13日 (金)

葛布道中着の復元

染め
 
 この道中着の染めは後染めである。すなわち、経緯とも染めない生成りのままの糸で織り、まず白布を作ってから、後でその白布を染めたのである。私の見る限りでは江戸時代の葛布は一部を除いてほとんどが後染めであった。
 科学的に検出された染め材は、藍、鉄の二つであった。それは、作り手の目から見ればだいたい予想がつくことであった。もう一つ鉄を作用させるための染料が必要である。私は、江戸時代に武士の間で流行った憲法染めの黒ではないかと思った。憲法染めは、一条下り松で宮本武蔵と決闘したとされる剣の名家吉岡憲法が考案した染めである。当時は、剣法家と染屋を兼ねていたらしい。その末裔に現在京都で古代染めの大家として知られる吉岡氏がいる。
 この染めは、まず布全体を藍で下染めする。そしてその上におそらく刷毛染めで渋木を塗る。渋木とは、山桃の木の皮を煎じ煮詰めて塊にしたもので、江戸時代は皮をなめしたり、布を染めるために一般的に良く出回っていた。固形に濃縮したことにより運搬しやすくなり、江戸時代に整備された街道を通じて全国に波及していったのであろう。
 渋木を塗った上に今度は刷毛で鉄分を含んだ溶液を塗る。この溶液は俗に「かね」と呼ばれ、お歯黒を染めるのと同じものであるが、瓶等の中に錆びた鉄くぎと水、そしてご飯粒を適量入れておくことにより現代でも簡単に作ることが出来る。濃色を得るためには、渋木と鉄媒染を何度も繰り返さなければならない。
 しかし、検査では渋木と同じ波長は検出されなかったので実際は、矢車玉(榛の木の実)、カテキュウ、ラックダイを使用した。また、当工房は普段は刷毛染めを行っていないことと、今後の経年変化の影響を少しでも押さえたいという理由から染め方は浸染にした。 

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2009年3月12日 (木)

葛布道中着の復元

緯糸密度

 リネンテスターで計測したところ鯨1寸間42本であった。この数値は、経糸密度と同じである。ということは、この道中着は経緯同じ密度で設計されており、布の表面は経緯の表面に出ている部分が正方形のモザイクで構成されていることになる。すなわち、この布は経糸の綿の風合いと緯糸の葛の持ち味をちょうど同じ割合で引き出し融合させた、経緯地合いの布地だったのである。
 道中着の表面は大変滑らかで緯糸の幅はほとんど乱れなく同じである。また、結び目も表面にはあまり現れていない。従って、この緯糸は非常な注意深さで均質に丁寧に作られたものであることが分かる。他の、当工房所有の葛布はこれほど注意深くは作られていない。実を言うと、葛布を織るのはそれほど難しいことではない。均質で美しい糸作りの方がよほど時間がかかるし、難しいのである。しかも、その葛糸の出来具合は最終的な布の善し悪しの大半を左右しているのである。他の自然布の産地同様当工房でも糸作りをやってくれる人の数は急激に減って来ている。しかし、糸あっての織りであるので今後は糸作りに力を入れて、しっかりと底支えしなければならない時にきていると感じている。

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2009年3月11日 (水)

葛布道中着の復元

経糸に使われた葛
前日の続き
では、遠州地方では葛布の歴史がはじまった当初から撚りかけしない平糸が使われていたのであろうか?おそらく、そうではあるまい。最初は実用重視で、経緯ともに撚りかけした糸が使われていたのが、何時の頃からか美しさや着心地といった感性的な価値が重視され、最終的にこの道中着のような形に昇華されていったと考える方が自然である。いわば、日本料理における「刺身」の如きものといえるだろう。しかし、それでは誰がいつごろこの方法を始めたのかといった疑問に応えうる歴史上の資料は、今のところ現れていない。ただ、戦国時代の武将、上杉謙信が着用したと伝えられる葛布の袴が上杉神社に納められていると聞き及んでいるが、滅多に公開されないらしい。次回の機会を待ちたい。
 また、今でも毎年下鴨神社で正月に催される蹴鞠では、葛布の袴が着用されている。蹴鞠は、平安時代から続く貴族の素養のひとつであったので、神社に残されている古い袴を熟覧することにより、何らかの手がかりが得られるかもしれない。 
 また、古代は、かつら状の植物はすべて「ふじ」と呼ばれていたことから、現在藤布として分類されている古代布の中に葛布が紛れて存在している可能性は否定できない。これも機会を得て是非調査したい事柄である。
 ちなみに、経緯撚りかけした糸を使った葛布で日本最古のものは、太宰府菖蒲ヶ浦古墳から出土した鏡面を覆っていた葛布である。唐津市には近年迄佐志葛布という、主に漁網用に用いられた葛布の伝統が残っていたが、残念なことに数十年前に絶えた。また、鹿児島県甑島には、民衣としての葛布が残されていたが、これも数十年前に絶えた。ただ、幸いなことに島の指導者たちの努力で、家々に残っていた葛布の着物がかなりの数集められ、歴史資料館に保存されている。ここには、機も数台残されているが、これを扱える人はもういない。甑島も唐津も、葛布はいずれもこれら漁業を営む海の民にとって大事な布であったことが分かる。
 一度絶えてしまうと、糸作りからはじまるいくつもの忍耐強い行程を経て完成へと向かう自然布をもう一度作ることは、大変難しくなる。こういった技術は、写真や動画、文章だけでは決して学びきれない。熟練の先達のそばでじっくりと動きを観察し、体を通して初めて身に付くものなのである。現在残されている古いものを修理保存し、次世代に伝えていく技術と同様、それらを再現できる歴史的技術を持った手を養成し、保存していく活動もこれからは重要である。

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2009年3月10日 (火)

葛布道中着の復元

緯糸に使われた葛

 緯糸に使われているのは、遠州地方の葛布の特徴である葛の平糸である。平糸というのは、葛苧(糸になる前段階の蔓の中の靭皮繊維を取り出して乾燥させたもの)を細く手指や爪先で裂き、裂いた紐状の端同士を葛結びで繋ぎ合わせたものをいう。こうやって次々に繋ぎ合わせられた糸は、いったん苧桶とよばれる入れ物に繰り入れ繰り入れされ、貯えられる。この時、桶に繰り入れる時に自然に左手で糸が軽くしごかれることによって、製織中の糸の動きの流れが滑らかになる。相当量糸がたまったら桶を逆さにして桶の底にあった最初の糸端を持ち上げ、箸状の棒に8の字をかきながら巻き付け、「つぐり」という特殊な形にしていく。ここで桶を逆さにするのは、結び目を糸の動きにあわせてスムーズに送り込むための知恵である。つぐり状に緯糸を支度するのは、他の自然布にはないこの地方に限られた方法である。
 こうすることによって葛糸の断面は薄い紙状になり、糸はテープのような平らな表面を持つので、そこに強い光沢を持つことになる。葛の美しい光沢に気付いたこの地方の先人達が、強さを多少犠牲にしても光沢を最大限に引き出そうと工夫を重ねた末の技といえるだろう。また、つぐりは、そのまま濡らせて底のある船のような形の杼に納められ、機の経糸の開口を行ったり来たりして布の緯糸を形成する。この杼は遠州地方の葛布屋がどこかで特注していたものらしく、一般のものより大型で高さが高く、トングが内蔵されていない。つまり、つぐりを入れて織るのに誠に都合よく出来ているのである。当工房にも数丁残されており、今も現役で使っている。しかし、これと同じものは今では作れないので、スェーデン製のボートシャトルで代用している。これにはトングが内蔵されているが、もっぱらつぐりを押さえる役目に使っている。このような杼を使うと驚くことに葛糸は全く撚りがかからない状態でそのまままっすぐに杼口から導きだされる。一般の撚りがかけてある緯糸の場合は、小管にコイル状に巻き付けて杼の中のトングに差し込み、トングの周りを回転しながら緯糸が導き出されるので、緯糸が引き出されるごとに必然的に撚りがかかることになる。

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2009年3月 9日 (月)

葛布道中着の復元

筬密度

 リネンテスターで計測したところ、鯨1寸間(約3.78cm)42本であった。また、一本の筬目に経糸が一本ずつ入っている片羽であった。また、耳糸は観察されず、布の両端も片羽であった。耳部は緯をそれほど中に強く押し込まず、やや耳の外に出して緩やかに緯糸をわたして布幅を出す織り方が観察されたので、この復元でもその方法を踏襲することにする。当時は、必ず竹筬が使われたはずだが、竹筬を作る技術も数年前に絶えたので、ステンレス製の筬を使うことにした。布幅は、約36cmであった。この復元では、当工房の親方のものも同時に作っていただく関係上、通し幅1尺1寸(鯨)、仕上がり幅1尺とする。通し幅というのは、筬に経糸を通す時の幅のことである。製織作業中には必ず布幅は通し幅よりも縮んでくるのでその幅を1寸取った。

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葛布道中着の復元

経糸の糊がけ

 以上のようにして作られた綿糸は、そのままでは機にかけられない。表面が毛羽立ち、織りにくいからである。そこで経糸には糊がけが必要になる。当工房では糊がけ用に葛粉を用い、共糊としている。以下に葛糊の作り方を説明する。
1 糸の重さの10%の葛粉を計量する。糊がけしようとする綿糸のかせがゆったり入る大きさの鍋を用意し、そこに糸の重さの3倍の水を入れる。
2 鍋の水の中に1で計量した葛粉を投入し、火にかける。  この時、木べらで鍋の底を絶えずかき回し続けること。最初白濁していた溶液が、ある温度以上に達すると一瞬で透明になる。とろみをつけるために透明になってからも30秒以上かきまぜながら加熱する。
3 熱いうちに綿糸のかせを鍋に投入し、最初は木べらで押し込むように糊を浸透させる。徐々に冷めて来たら、かせを絞ってまた広げて糊液につけるという動作を繰り返し、糊の浸透を助ける。
4 3のようにした糸を時々様子を見ながら浸透を助け、夏ならば2〜3時間、冬は半日程度放置し、繊維の奥迄完全に糊を行き渡らせる。
5 4で糊のしみわたったかせを天日乾燥する。夏の天気の良いときは短時間でかりっとした感じに仕上がる が、あまり乾燥時間が短いと、一本一本ばらす作業に苦労する。かりかりに糸同士がくっついてしまった場合は、ぬれタオル等をまいてもう一度湿り気を与え、一本一本がきれいにばらけるようにさばいていく。この作業は根気が必要である。

 以上が経糸の準備の全てである。

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2009年3月 8日 (日)

葛布道中着の復元

実際の製作では、前述したように国産茶綿糸の入手が困難なため、静岡県磐田市の寺田農園の打ち綿を購入し、東京在住のS氏にS撚り20番手の単糸を紡いでいただいた。

以下、Sさんによる綿糸の製作過程

1 寺田さんの打ち綿を手のひらの内に収まる程の篠にし、左手で軽く持つ。机の上にインドのチャルカを置き、右手でチャルカの車をゆっくりまわしながら紡錘の先端で綿を紡いでいく。50〜60cmほど紡げたら左手の親指と人指指で糸をしっかりと押さえ、追い撚りをかける。チャルカとはインドのガンジーが独立運動の際、無抵抗主義のシンボルとしていつも携帯して回していた綿紡ぎの道具である。S氏によると、いざって回す糸車よりもチャルカの方が椅子に座った姿勢で出来るので使い勝手がよいとのこと。
2 ある程度紡錘に糸がたまったら、紡錘を本体から抜き取り、左手に紡錘を持ち、手の指の間から糸を繰り出して右手で回すかせあげきに巻き取る。かせあげきの枠周は1.3mなのでこれを462回転させて一つのかせの全長を約600mとする。
3 2で作ったかせが葛布1反分に必要なメーター数(当工房では12000mお願いしている)揃ったら、かせを鍋に入れ水がひたひたになるくらい迄入れて、20分煮沸する。この時かせがこげないように注意する  。その後一晩放置し、自然に熱を冷ます。水には綿のアクがとけ込み、黄褐色になる。
4 翌朝3のかせを竿にかけて干す。生乾きの時にもう一 度かせに直し、さおにかけて干す。この時、かせの下端の輪に棒を通し、棒の両端に適当なおもりをつけて糸の撚りを固定させるとともに糸筋をのばす。乾燥し終われば、出来上がり。

 経糸に使える程丈夫で均質な細番手の綿糸を紡げる人は日本でも数少ない。S氏の作ってくれた糸は大変貴重なものである。今後我々のような工房や公の機関等は、努力してこの技術を伝承する人々を養成し、次の世代に伝えていく必要がある。

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2009年3月 7日 (土)

葛布道中着の復元

上記の疑問を解くべく、以下の実験をしてみた。
1 白綿の糸を鉄を含む溶液の中に半日入れて、経過を見る。
  結果 
  糸は鉄の影響を受け、茶色く変化した。サンプル2参照
  実験結果から分かること 
  白綿であっても鉄により茶色く変色するので、サンプル1の茶色の部分は白綿が鉄の影響を受け変色  した可能性を否定できない
2 経に白綿の綿糸、緯に葛糸を使って試織し、藍の下染めを行った後、タンニン性の染料を引き染め   し、その上から鉄を含む溶液を引き染めする。発色後、布を一部分解して経糸を観察する。
  結果 
  経糸はサンプル1と同じ状態になった 。サンプル3参照
  験結果から分かること
  経糸に白綿を使った可能性を否定できない。
3 経に茶綿の綿糸を用い、2と同様に試織、染色する。国産の茶綿の細番手は入手困難なため、外国産  茶綿の太番手を使用する
  結果
  経糸はサンプル1と同じ状態になった 。サンプル4参照
  実験結果から分かること
  経糸に茶綿を使った可能性を否定できない

 以上の実験結果から、この道中着に使われている経糸は、白、茶どちらの綿でもありうるということが分かった。

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2009年3月 6日 (金)

葛布道中着の復元

白綿か茶綿か

 サンプル1は実際の道中着からとりだした糸である。糸はまっすぐではなく、捻転している。緯糸と交差して布の表面に出た部分は黒色を呈し、反対の緯糸で覆われた部分は茶色である。経糸である綿糸は隣り合う一本ごとに交互に上糸と下糸になり、その開口部に緯糸である葛糸を入れ込ませている。それゆえ、経糸を織物から抜き去って観察すると上下に交互に捻転している様子が分かり、また、その断面は元のような円形ではない。この観察により、織物の表面と裏面の厚みで構成されるわずかな層が実は立体で構成されており、我々の皮膚の構造と似たものであることに気付く。
 サンプル1は、この道中着が引き染めで染められたことを物語っている。すなわち、刷毛で染料が塗られた表面部だけが染まり、緯糸で覆われた部分は染まらなかったのである。浸染法は、浸染を何度も繰り返すうち、次第に糸の裏側にも染料が回って、表面と同じ色相になってくる。  では、サンプル1からこの道中着で使われた経糸が茶綿であった可能性を探ってみた。江戸時代の資料によると茶綿の記述があるものはいたって少なく、輸入品の目録にも見当たらない。また、茶綿と白綿を隣接したところで栽培すると互いに影響し合い、違う種になってしまうので離れて栽培するという話を寺田氏から聞いた。現在のころも木綿の継承者佐貫氏には、江戸時代にも茶綿はあったかもしれないが極わずかであること、また、縞等で茶色を使いたい時に染めずに簡便であったので用いられた可能性があるのではないか等の指摘を受けた。そして、F氏は、最初から黒に染めることを想定して茶綿を用いたのではないかとの見解を明らかにした。
 ちなみに現在日本で茶綿を20番手に均質に紡げる手を持つ人は私の知る限り皆無である。若し、紡げたとしても極少量であり、1反分の葛布の経糸として必要な10000m以上もの長さに耐える人を私は知らない。茶綿は和綿よりもさらに繊維長が短くどちらかというとがさがさしていて艶がない。江戸時代の人たちは、武士も庶民も白綿の方を好んだのではないだろうか。  

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2009年3月 5日 (木)

葛布道中着の復元

使用素材
 
 全ての織物は経糸と緯糸の組み合わせによって出来ている。この道中着は、経糸が綿、緯糸が葛で出来ている。はからずも、近代金谷掛川地区で作られていた輸出用の壁紙や国内向け襖紙の素材と共通であった。では、もっと詳しくそれぞれの素材を調べてみよう。

経糸に使われた綿糸
 
道中着は随所に折り切れがあり、その部分からはかなり多くのまだ本体に繋がっている経糸が露出しているので、比較的容易に観察できる。その結果、繊維長1cm以下の短い綿繊維をS撚りにした単糸であることが分かった。製織後は糸が締まって元のふっくらした状態とは違ってくるし、その後の糊かけ、砧打等の仕上げ過程を経てさらに糸の状態は変化する。また、この道中着は100年以上前のものであると予想されるので、露出している綿糸がそのまま当時の色と太さを呈しているとは考えにくい。そういうことも鑑みながら、見た目は現在のヤードポンド法でいう20番手前後ではないかと見当をつけた。
 次に、ここで使われた綿糸が国産か舶来品かを考察した。江戸時代は綿が一挙に普及した時代である。しかも、国産のみならず唐桟やサントメといった薄手の高級綿織物、また細番手の綿糸も長崎出島を通して入って来た。ところが、こういった輸入綿糸は地方迄は回らず、主に京都で使われたものらしい。また、江戸末期大蔵永常による農業書「製葛録」によると、葛を製するの図の挿絵には糸車を使って綿糸を紡いでいる婦人の図が描かれている。元の素材の綿をこの絵に描かれている人たちの畑で作っていたのかどうかは分からない。或は、原綿は買ったものだったかも知れない。さほど遠くないところに三河木綿の一大産地があるので綿を手に入れるのはそれほど困難なことではなかったかもしれない。ともあれ、以上の観点より私はこの道中着に使われている綿糸が国産自家製である可能性が高いと見ている。そうであれば、材料の綿は和綿でなければならない。現在材料店で容易に手に入る綿はほとんど輸入物で、繊維長が長い。
 検査の結果、道中着に使われている綿の繊維はどれも1cm以下と短いものであった。普通の綿の平均繊維長は約1、5cmである。和綿は江戸時代一般的に農家が栽培していたもので繊維長は1cm以下と短く、しかも繊維の一本一本が太く、こしが強い。このくらい繊維長の短い綿を細く均質な糸に紡ぐのは相当な熟練を要するが、不可能なことではない。事実江戸時代は30番手以上の細い糸を紡ぎ出したという文献も残っている。
 幸い磐田市の和綿農家寺田氏から、和綿の打ち綿を手に入れることが出来たので、今回はその和綿を使うことにする。打ち綿というのは、綿の収穫後不純物を取り除き、ふわふわの状態に繊維を揃えたもので、江戸時代は弓を使って打っていたが、現在は機械で行っているらしい。

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2009年3月 4日 (水)

葛布道中着の復元的研究

 去年、東京文化財研究所のF氏から依頼されていた江戸時代の葛布道中着を復元した反物が完成し、先日無事納め終わった。その復元過程において分かったことを文章でまとめたので、これから少しずつ紹介します。


葛布道中着の復元的研究

葛布復元について
大井川葛布 村井 良子
当工房では江戸時代のものと思われる袴、裃、道中着を数点手に入れていたが、今回復元する物はそのどれよりもできばえが良く美しい。葛布の布地本体もさることながら、蝙蝠の形に細工されたボタンや絹製の組紐、襟に用いられた毛織物等どれも細やかな美学に基づいて作られている。
 それを当工房では無造作に壁の衣桁にかけて展示していたのだが、元から少しあった肩部の畳み切れが展示しているうちにだんだん下方へ広がって来てしまった。そういう状況のもと、古代染織品の復元と保存の専門家であるF氏の好意で専用の保存箱をあつらえていただき、保存についてのいくつかの助言をいただいたことは幸甚であった。
また、F氏からは科学的調査に基く道中着復元のお話をいただき、この研究は産声をあげたのである。
道中着の観察と検査


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強くて美しい綿糸

 年末、豊橋に住むKさんから、1ヶ月半かけて紡いだという綿糸が送られて来た。先日、ようやくそれまで取りかかっていた仕事を終え、この綿糸を扱い始めた。
 ものすごーく良い!!この人の作る糸は、とてもしっかりしていて強い!! それでいて美しい。
 糸繰り、糊がけ、経て巻き等工房のSさんがやってくれたのだが、とても扱いやすくて切れない。
機にかけてみると、これまた良い。全然切れないのだ。そして、バンバン打ち込めるのだ。実は、今までは手紡ぎの綿糸は機にかけて織るとよく切れて、泣きながら辛抱してつなぎつなぎ、織り進めていた。でも、Kさんの糸は滅多なことでは切れないのだ。
 私は、日本にまだこんなしっかりした、しかも15000mもの長さの綿糸を粘り強く紡ぎ上げることの出来る人がいたことに、感動しています。

 糸あってこその織物。こういう地味でしっかりした手仕事の出来る人がだんだん増えていってくれると、嬉しいなと思います。
 それから、この糸の原料である綿を栽培している磐田市の寺田さんにも、頑張って綿農家を続けていってほしいと願っています。
 綿農家も綿紡ぎも表には出ない地味な仕事ですが、織物の土台を作る大切なところですね。

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