2009年6月10日 (水)

天岩戸神社

 本薬師寺跡から東に向かって暫く歩くと、飛鳥川がある。万葉集によく詠まれた川であるが、今は草が生い茂り、川幅もさほど広くはない。この川にかかる新河原橋という小さな橋を渡り、さらに東に歩を進めると天香具山の南麓にあたる。この辺りを南浦町という。海も無いのに南浦とは不思議だと思っていたところ、昔(藤原宮が作られる7世紀末前)は大和三山に囲まれたところには大きな池があり、その周りには湿地帯が広がっていたということを知った。おそらくその池(沼?)は天香具山の麓まであったので香具山南麓の部落を南浦町というのではあるまいか。
 この南浦の人々によって守られているのが、天の岩戸開きの舞台になった天岩戸神社である。御祭神は勿論天照大神、そして御神体は今も残る岩戸数個である。日本史上最も有名な神話の舞台は、しかしひっそりと佇んでいた。両脇に草の茂る小道を進んで行くと道の左に小さな手水場がある。その脇には、誰がかえているか、さっぱりした手ぬぐいがかけてあった。その奥に拝殿がある。拝殿に向かって左手に、御神庫のような建物があったが、荒れ果てていた。拝殿の奥は、神殿がなくて、すぐに山の斜面になっており、そこには岩戸数個がころがって?いる。参拝客もあまりいないらしいが、私の後若い女性が一人でやって来て、天津祝詞をあげていた。ここは、知る人ぞ知るのスポットなのだろうか。それにしても、大事な岩戸開きの聖地である。私は、この前で玉や鏡を取り懸けて、あおにぎたえ、しらにぎたえを垂らした榊を供え、天うずめの命が踊ったように逆さに置いた桶をとんとんと踏みならし、太祝詞をあげて、天の岩戸開きがしたいと思った。

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2009年4月 7日 (火)

藤原宮跡

 奈良にいる娘のところへ行ったついでに、前々から気になっていた持統天皇の歌、「春すぎて‥‥」に詠まれている風景を確かめたくて藤原宮跡へ行って来ました。
 まず、この歌が詠まれた時代背景を知るべく、娘の推薦する里中満智子作「天上の虹」という漫画を読みました。この漫画は、いまでも年一巻のペースで描き進められているという、現在進行中の超大作であります。
 天智天皇、天武天皇、持統天皇の治めた600年代後半は、日本史上初の内乱、壬申の乱を境として大和朝廷の機構が大きく整った時代であります。また反面、皇族同士の権力争いの絶えない血生臭い時代でもありました。
 「天上の虹」では、複雑な皇族の血縁関係が、男女の愛を基軸にすこぶるドラマチックに描かれているので、とても理解しやすいです。娘は、高校時代これをよんでいたおかげで、日本史の試験の時にたいそう役立ったのだとか。
 持統天皇は、即位前鵜野讃良良媛皇女(うののさららのひめみこ)と呼ばれておりました。讃は、讃岐の讃、良は、良子の良とも解せるので、うちの親方は、「これは、讃岐の良子とよめるじゃないか。お前のことではないか!」とのたまわっておりました。(女将さんは讃岐香川県出身です)
 確かに、沼地だったところに藤原宮を築き、三種の神器を定めて大和朝廷の礎を確固としたものにした偉大な女帝ではあるのだけれど、我が子草壁を王位につかせるために、同じく天武天皇に嫁いだ姉の子、大津を死に追いやるなど、なかなかきつ〜いおかたでもあります。こういうお方に私が似ているかどうかはさておき、まず近鉄八木線にのって畝傍御陵前までいきましょう。
 畝傍御陵には、誰が眠っているか。ご存知大和朝廷の元祖、神武天皇であらせられます。神武の時代は西暦で言うと、紀元前600年というところでしょうか。遠い神話の時代であります。橿原神宮には皆さんよく行かれますが、この神武天皇御陵は滅多に人影のない静謐そのものの空間であります。
 さて、写真の元薬師寺跡は、駅から東に向かって歩いて約15分のところにあります。病に陥った持統のために、天武が病気平癒を祈らせるために作った寺であります。今はご覧の通り田んぼの中にぽつりぽつりと礎石が残されているだけです。ここまでくると、雨がぽつぽつ降り出しました。私は、急いで遺蹟の中にあった薬師堂に「どうか今日一日藤原宮を見学し終わるまで、雨を降らせたもうな。」と祈りました。そのおかげかどうか、どうにかその日一日雨に降られずにすんだのです。(お薬師さんありがとう!)
 この元薬師寺は、藤原京の南東の隅にあたります。東大寺、西大寺、興福寺など大寺を中心とした京作りをした平城京に対して、この時代はまだ仏教が国の中心ではなかったことが伺い知れます。藤原宮を守っているのは何と言っても畝傍山、天香具山、耳成山の大和三山です。そしてこの三山は、神道の霊場でもあります。あすは、元薬師寺からもう少し東に足をのばして、天香具山にご案内します。
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2009年3月27日 (金)

娘の卒業式

3月24日は、娘の大学の卒業式だった。
入学式は、息子の中学入学と重なって行ってやれなかったので、この度は是非行って娘の晴れの姿を祝ってやりたかった。
私は、半年も前から卒業式にはかせる袴の製作に取りかかっていた。もちろん葛の袴である。
卒論で西洋史における色をテーマに選び、壁画に描かれたマリア様の衣装の赤に注目した娘のために、私は糸を赤く染めた。経の絹も赤、緯の葛も赤。染めに使ったのは黄檗とラックダイである。よりいっそう鮮やかで強い赤を出すために、先染めで糸から染めた。同じ赤でも、後染めで白布を染めるよりも先染めにする方が深い色が得られる。
写真は、着付け終わって卒業式に出るまでの間、自分の部屋で、お世話になった先輩宛に手紙を書いているところ。
中振り袖は、私のおばあちゃんの形見の品。母が12歳の時に他界しているので写真でしか会ったことはない。おそらく、祖母が嫁入りの時に持って来た物であろうから、今から70年程前のものであると思われる。紫の綸子にもみの裏が映って、艶っぽい色になっている。なんせ古い物なので、着付けの時、美容師さんにあんまり強く引っ張らないように気を使わせてしまった。
赤い葛袴は、太陽の下でみるとよけい美しかった。下鴨神社で行われている蹴鞠の時、鞠人たちが着用しているのがこの葛袴である。
日本広しと言えど、葛袴をはいて卒業式に臨んだのは私の娘只一人だろう。
織り人である母親の面目躍如! 私から娘への精一杯のエールである。


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2009年3月20日 (金)

葛布道中着の復元

仕上げ

 仕上げには、毛羽取り、糊がけ、砧打ちが含まれる。染め上がっただけでは布として不完全である。このような仕上げを経て、初めて人に見せ得る布に成長するのである。
以下、それぞれの行程を細かく見ていく。

毛羽取り

 葛布は緯糸の性質上織り上がった布の表面に細かい葛の毛羽がいく本も飛び出しているのが常である。この毛羽を毛羽取り専用の鋏で丁寧に根元から切り取る。鋏は、先代の経営者が特注した物であろうか、柄の部分がとりわけ長くていかにも毛羽を取りやすい形をしている。この形の鋏はおそらく他の地方には無いであろう。遠州の葛布屋専用のしけとり鋏と言えよう。
 こうして布の表裏両面の毛羽を丁寧に切り取る。「製葛録」では、布の表面の毛羽は、織りながら機にかかっている時に取る、と記してあった。機下ろしした後、丁稚のような人物が鋏を使って布の反対側の毛羽を取っているところの挿絵が描かれている。

糊がけ

 糊の作り方は先の章で詳述したので、ここでは省く。刷毛に糊を含ませ、鍋の口で軽く余分の糊をしごいて落とす。そして、この刷毛で布にまんべんなく糊をふくませ、含ませたところから平らな棒で布に叩き込む。こうすることで、ただ刷毛で塗るより、塗り斑のない布になる。終わったら、布の両端に張木をかけ、布端のあちらとこちらで柱や立ち木などを利用して布をぴんと張らせて固定し、乾燥させる。

砧打

 乾いた布を巻いて円柱状にする。平らな、硬くて粘りのある石の上でこの布を少しずつ引き出しながら、木槌で布を強くたたいていく。打ち終わった布は手前側に、向こう側の布とは反対巻きに巻き取る。片面が終わったら今度は反対面に砧打をする。ちなみに、砧とは台にする平らな石のことを言う。布は、次第に柔らかくなり、ぬめりと光沢が出てくる。

アイロンがけ

 最後に、布目を調えるように高温当て布なしでアイロンがけをして、全ての行程を終わる。

終わりに
 
 これで道中着の復元の全てを終わるが、次の行程で縫製された実物の道中着を着てみることで、新しい模索がはじまると思っている。雨や風の日、道中着は寒さや水分から体を守ってくれるだろうか。着てみた感じはどうだろう。武士らしい格好の良さが現れるだろうか。また、布の強度は十分だろうか。糸の作り方にもう一工夫いりはしないだろうか。葛布道中着製作の完成は、着るという観点からの新しい研究の始まりであるといえる。

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2009年3月19日 (木)

葛布道中着の復元

染色

 筆写の見たところ、染めは藍の下染め、上に渋木をかけその上から鉄媒染をかけたものではないかと思った。先にも述べた通り、この染めかたは別段特別の物ではなく、当時の武士に好まれる青勝ちの黒で、憲法染めと呼ばれ極普通に行われていた。深津氏の調査では、鉄、藍が検出されている。だが、残念ながら渋木と一致する波長が確認されなかったので、ここではそれ以外の染め材を任意に決定し、使わせていただいた。使った染め材は、藍、矢車玉、カテキュウ、ラックダイ、鉄である。藍は、沖縄の琉球藍を取り寄せて発酵建てしたもの、矢車玉は近くの山で数年前採取した榛の木の実を乾燥させておいたもの、それ以外は購入したものである。
 カテキュウというのは、ネムノキ科のアセンヤクノキの葉のついた枝や樹皮を煮詰めて乾燥させ、暗褐色の塊としたものである。アセンヤクノキは、主に東南アジア熱帯地方で栽培されており、江戸時代すでに使われていた。日本では健胃薬として古くから「阿仙薬」の名で知られている。
 ラックダイというのは、東南アジアのネムノキ科の樹木に寄生する昆虫の分泌物を精製して得られる色素で、パウダー状になっている。精製されていない分泌物の塊が、紫鉱の名で正倉院に納められている。当時は染材ではなく、薬として納められた。ラックダイは、現在も食品や化粧品として使われており、タイには日本の工場がある。
 それでは、染めの実際を以下に詳しく述べる。
被染物 葛布1反(道中着2領分)
経糸 和綿手紡ぎ糸
緯糸 葛手つぐり糸
被染物の巾 39cm
被染物の丈 16m
被染物の重さ 840g
1 被染物全体に水を浸透させた後、藍瓶の中で5分静か  に繰り回し、藍の中色に染める。瓶底に布がつくと、  瓶底に沈んでいる灰や澱の影響をうけ、白っぽい汚点  になってしまうので、染める前に瓶の底にざる等を沈  ませて、布が付着するのを防いでおく。
2 瓶から引き上げて、物干にかけて空中発色させる。藍  は、空気中の酸素によって酸化され、藍色を呈する。
3 数日後、藍染めをした上にタンニンを含む染料を浸染  する。この場合は、矢車玉とカテキュウを使う。先   ず、被染物の10%のカテキュウの塊を紗袋に入れ   て、少量の水を沸騰させて煮とかす。カテキュウの染  液が入った鍋に被染物の100倍の水を加えて昇温   し、60℃以上の液温を保つ。この染液の中に被染物  を浸し、静かに繰り回して染める。染め斑を防ぐた   め、絶えず被染物を静かに動かす。頃合いを見て、火  を止め、そのまま半日放置し、時々様子を見ながら被  染物を撹拌する。被染物を鍋から引き上げ、物干にか  けて干す。
4 硫酸第一鉄を被染物の10%計量し、60℃以上のお  湯の中にとかして、この中で被染物を媒染する。染め  斑を防ぐため、絶えず被染物を動かし続ける。布は、  だんだん黒みを帯びてくるが、この段階ではまだ青み  の方が強い。鍋の温度が下がる迄布を浸け込んでお   く。もちろん、時々様子を見ながら撹拌することは言  うまでもない。
5 翌日、矢車玉の染液に浸す。矢車玉を乾燥させたもの  約500gを紗袋に入れて煮出す。沸騰したら、20分  程煮だし、第一液とする。前回の半分に水量を減ら   し、同じように20分程煮だして第二液とする。この  ようにして、繰り返し5~6回は染液を取り出すことが  出来る。ここでは第一液と第二液を合わせた物を使   う。こうやって作った染液の中に被染物を入れて20  分以上撹拌し、様子を見ながら染液の中に布を放置す  る。時々、布を撹拌して斑になっていないかどうか点  検する。半日程このように浸染し、鍋から引き上げ、  その日のうちに乾かす。
6 翌日4で行ったように鉄で媒染する。布は、徐々に黒  みを増してくるが、この段階ではまだ緑味勝ちでる。
7 3で行ったのと同様に新しい染液を作って浸染する。  その日のうちに鍋から引き上げ、乾かしきる。
8 4、6と同様に鉄で媒染する。その日のうちに乾燥さ  せる。この段階でもまだ緑味勝ちでなかなかしっとり  した黒にならない。 
9 ラックダイパウダーを被染物の10%計量し、液温6  0℃以上の染液を作る。この中に8の被染物を入れて  撹拌しながら染める。被染物を染液に入れたまま、翌  朝液温が下がる迄放置する。
10 鍋から9の布を引き出し、物干竿に干して、発色を  見る。この時ようやく求めていた色に近似できたこと  を知る。

 これだけ面積の大きい布を後染めで斑なく単色染めにすることは難しいものである。染め斑をなくすためには、このように始め薄い色から付けていき、徐々に濃くして上へ上へと色を重ねていけば良いのである。一回で濃く染めようとするとたいていは染め斑を作ってしまう。しかし、このように青系、黄系、赤系の色素を徐々に重ねていくことにより、色に厚みが増し、複雑で美しい黒になるのである。

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2009年3月18日 (水)

葛布道中着の復元

捨て織り
 
 始めに苧柄を1本緯糸に入れて経糸を安定させる。次に、太めの綿糸を緯糸として織り進み、この糸で織られた布が女巻きに一巻きするまで続ける。これを捨て織りと呼ぶ。こうすることによって経糸の張力が安定し、織り幅も決まりやすくなる。

本織り

 経糸と同じ綿糸の端を1m程残して1cm織り、最初に残した端糸で織り始めを始末し、解けないようにしておく。次に、つぐりを水で濡らし、両手のひらで挟んで形を崩さないようにしながら軽く水気を絞る。つぐりを舟底型の杼に入れて糸目から糸端を出し、緯糸として織る。布巾の織り縮みを防ぐため、緯糸は打ち込まれた糸に対して30°位の角度で入るように糸量を保つ。
 筬打は比較的強く打ち込む。緯糸の目を詰まらせ、布に強度を出すためである。
 10、11月は織りがスムーズに行えたが、同じ設計で1、2月の冬に機にかけたものは製織中に経糸がよく切れて、誠に織り辛かった。空気が乾燥しているためである。静岡の11月はまだ夏の終わりといっても良いくらいで、湿度も60%程度はあるが、さすがに冬になると湿度30%を切ってしまう。すると、途端に経糸は言うことを聞かなくなってしまうのだ。「製葛録」の挿絵を見ると、母屋とは別棟の納屋のような部屋で女性が葛を織っているところが描かれている。この部屋はおそらく土間で、足下からの湿気を十分に取り込める工夫があったに相違ない。

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2009年3月17日 (火)

葛布道中着の復元

経通し 

 ステンレスで出来ている綜絖の穴に1本ずつ経糸を順番に入れていく。経糸の束は機から吊るしておき、それを4〜5束に分け、最初の通し始めの束以外は抜け落ちないように片輪結びをしておく。綜絖の穴が、吊るしたあや棒の真ん中より気持ち上になるように位置を修正する。また、作業者の目線が、綜絖の穴とあやの両方が一度に確認できる位置であるよう、座る高さを調整する必要がある。この作業は綜絖通しという、先が鈎状になった金属製の器具を使って行う。1寸巾程通し終わったら、抜け落ちないように手前側に片輪結びを作る。
 現在当工房ではこのようにステンレス製の綜絖を使っているが、江戸時代はおそらく糸綜絖である。後者の方が経糸にかかる負担が少なく、織りやすかったのではないだろうか?次回は、糸綜絖を作って再挑戦する機会を得たいと思う。

筬刺し
 
 綜絖通しが済んだ経糸を今度は筬に刺していく。この作業は、薄いへらのような形で、先端が中央に向かってVの字に切れ込みの入った金属製の「筬刺し」という器具を使って行う。まれに、手織り屋仲間のうちで、自家製の竹で作った筬刺しを使っている工房がある。江戸時代も、自分で使いやすいように道具を工夫したものであろうか。
 筬は、織り幅を確保し、かつ緯糸を打ち込む道具である。江戸時代は全て竹筬であったはずだ。当工房にも竹筬は若干残っているが、筬目が違っているのでこの場合は使えない。従って、近代的なステンレスの筬を使うことにする。
 この道中着は、片羽といって筬目に1本ずつ経糸が通っている。若し、通し間違って1本空いてしまったり、逆に1目に2本入ったりしてしまうと織り傷になってしまうので、注意して通さなければならない。すなわち、1寸程通し終わるごとに片方の綜絖をあげて、通し間違っていないかどうか確認するのである。通し間違いがあった場合は、そこから後の筬刺しを全てやり直さなければならないので、面倒でも1寸ずつ確認する方が確かである。
 大体の織物は耳糸を作るが(布の両端にあたる筬1目に2本の経糸を入れて丈夫にすること)、この道中着には耳糸が確認されないので、経糸全てを片羽にする。筬刺しも綜絖通しと同様1寸終わるごとに裏側で片輪を作り、抜けないようにしておく。

前付け
 
 筬刺しの終わった経糸を女巻き棒に取り付けた力布の先端にあるステンレス棒に結びつけていく。これに先んじて、経糸が機後方の横木から綜絖を通り、筬の真ん中を通り、女巻きに達する迄一直線であるように調整する。また、結びつける順序は女巻きの棒に対して、最初に真ん中、順次左右交互に中へと進ませる。最初はきつめに結び、後になるほどゆるく結ぶ。そうしないと最初に結んだ物ほどゆるんできてしまうからである。
 次に、踏木を踏んでその時に出来る開口が筬巾に合うように調節する。

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2009年3月16日 (月)

葛布道中着の復元

経巻き
 先ず、粗筬通しを行う。粗筬は、木枠の上部が取り外しできるようになっているもので、1cmごとに筬目が仕組まれており、経巻き用に大変便利な道具である。総経糸本数441本で通し幅1尺5分(約39.7cm)なので、粗筬1本には11本の経糸を通せば良いことになる。ただ、江戸時代に粗筬というものがあったかどうかは不明である。或は、普通の筬を粗筬代わりに使い、最後には経糸を全て抜き取っていたかもしれない。今でも、手織りの綿織物の人は、この方法をとっているようである。
 粗筬通しがすんだ糸を機の後方に持っていき、ちきりに取り付ける。この時、機を移動させ、ちきりの後ろに7〜8mの空間が出来るように物を片付ける。この空間を使って経糸をちきりに巻いていくのである。
 ちきりには、力布が取り付けてある。力布の端は輪になるように縫ってあり、輪の間隔が1寸になるように鋏で切り込みが入れてある。輪の中にはステンレス製の細い棒が入っているので、この棒に、幅がちょうど通し幅くらいになるように塩梅して経糸を結びつけるのである。これに先んじて、鎖状になった経糸の束をほどいて7〜8mにも延ばし、延ばしきった経糸の結び目の上に5Kg程の石の重しをしておく。(糸が汚れないように余り紙などで糸束を保護した上から重しをのせること)延ばした糸束を結んであるところは全て解いておく。経糸をステンレス棒に結び付ける時は、石の重しから棒迄伸びた扇状の経糸の流れがあたかも川の流れのように淀みが無く、張り具合も一定であることに注意する。
 いよいよ、経糸をちきりに巻き取っていく。ちきりを機に据えたまま、ちきりの両端にあるつばのどちらかを手で回して巻き取る。粗筬の中心が常に機の中心に位置し、ぶれていないことを時々確認する。力布が終わる迄はそのまま巻き付け、糸がちきりに達すれば機草(はたくさ)と呼ばれる厚紙をちきりと経糸の間に挟んでいく。昔は厚紙ではなく、大麻や苧麻等の苧柄を使ったので、この名が付いた。巻き取るにつれ、あや棒は順次後方に移動させなければならない。しかし、手紡ぎの細番手綿糸は互いに絡みやすく、そう簡単には動いてくれない。この動作をやりやすくするためには、経糸に強い張力をもたせることである。
 こうやって順次経糸をちきりに巻き取り、ちきりから2mのところ迄きたら、ちきりの両端をひもで縛って固定し、経糸が緩まないようにする。残りの経糸は経通し(経糸を綜絖に通すこと)しやすい位置に吊るす。

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2009年3月15日 (日)

葛布道中着の復元

製作の実際

 深津氏が調査した結果、道中着1領に必要な布地は、幅36cm、長さ6mであった。そこで、2領分を一度に織ろうと、次のように設計した。

通し幅 1尺5分  (織り幅1尺の見込み)
筬密度    42/寸  (片羽)
整経長 17、1m
経糸本数 441本
経糸総長 7540m
緯糸に必要なつぐりの量 700g

この設計に従って以下のような作業を行った。

整経
整経とは、設計通りに経糸の本数を揃え、それを決められた長さに、乱れることなく経る作業である。通常整経台という杭が何本も打ってある長方形の枠を使う。整経は1本だけで行うことも出来るが、能率が上がらないので4本以上まとめて行うことが普通である。ここでは4個の木枠を使って経ることにする。整経法には、環状整経と往復整経がある。環状整経は、1周が経糸の長さになり、ちきり(経糸を巻く棒。機の後方に設置する)にも女巻き(織られた布を巻く棒)にも端が切られた経糸を結んで固定することになる。往復整経はちきりになる側に達すれば、ターンして行きと同じ道を帰ってくるやり方で、ちきりには経糸の輪を通すことになる。ここでは、前者の整経法を採ることにする。
 環状整経では、手前右端の杭からスタートさせる。始めに、巻き尺などを使ってスタート棒から如何に経れば目的の長さになって再びスタート棒に戻ってくることが出来るかを決める。この時、どうやっても目的の長さにならないときは、補助の杭を臨時に設ける。道筋が決まれば、あまり糸等で経糸の道筋が分かるように巡らせ、ガイドの役を持たせる。
 次に、整経台の向こう側に綿糸を巻いた木枠を4個等間隔に設置する。木枠の真上に表面が滑らかな棒をわたし、木枠から真上にあげた綿糸がその棒の上を通って経る人の手元にくるようにする。こうすることによって経糸同士の絡みを防ぎ、木枠から糸を引き出しやすくすることができる。木枠の周囲を回転しながら糸が引き出されることにより、必然的に引き出されるごとにあまい撚りがかかることになる。木枠上の糸の回転が、実際にかかっている経糸の撚りを阻害しない方向に木枠の上下を修正しなければならない。つまり、この道中着の経糸はS撚りであるので、経糸は、木枠の周囲を左周りに回転しながら引き出されるように木枠をセットするのが正しい。次に、4本の経糸の端をまとめてスタート棒に結びつけ、いよいよ経を経る動作を開始する。スタート棒からやや離れた作業者の正面あたりに特別な杭を2本見立てる。これは、「あや」を取るための棒で、この2本の棒の間を経糸が交互に×印を作るように重ねられることで、糸の順番を正確に見いだせる。この×になっている部分を「あや」と呼び、織物では大変大事な部分である。さて,作業者は4本のあやを作るために、右手の人指指と中指を交互に使って4本の経糸をすくい、あやを確保した後2本のあやとり棒に糸を差し込む。その後、経糸4本を一緒にして、ガイド糸に沿って経ていき、最後にスタート棒に戻る。この場合、総経糸数が441本なので、この動作を110回繰り返し、最後に残り1本だけ経ればいい訳である。
 経終わった経糸の束を約50cmごとに余り糸等で縛り、乱れを防ぐ。あやには織り幅よりもやや長めのあやひもを通しておく。そして、スタート棒の近くで経糸の束を切り離す。経糸の束を乱さず運ぶために、あやの反対側の端から糸束を鎖状に手で編んでいき、風呂敷等で包んでおくとよい。

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2009年3月14日 (土)

葛布道中着の復元

仕上げ

 道中着は、表面が滑らかで艶があり、しかも布の裏側迄水を吸収しにくいという特徴がみられる。このことから、道中着は、布の段階で表面の毛羽を取り除き、撥水性のある何かで加工された後、砧打を施されたのではないかと推察される。撥水性のある何かとは、何であるのか。大蔵常永「製葛録」の挿絵には、店の使用人のような人物が三味線のバチよりも一回り大きなもので布の表面に何事かしている図が描かれており、解説には「艶つけている図」とある。三味線のバチのようなものは何で出来ているのであろうか。木か、陶器か、象牙か。これで布の表面をただこすって艶を出しているのであろうか。或は、このバチ状のものの布に当たる部分に、例えば油や蜜蝋のような撥水性のあるものをつけて塗布していると見ることは出来ないだろうか。現段階では推論の域を出ない。
 ちなみに、当工房のある旧金谷町小夜の中山にある休憩所には、丁葛という名前で、古風な紙包みに入った四角い葛粉の固まりがおいてある。聞けば、一反の葛布を仕上げるのにちょうど良い量の葛粉であるところからこの名がついたという。計量すると約40gで、当工房で作る葛布の長着一反約13mの重さは約800gであるところから布の重量の5%の糊を使うことが分かる。経験から言うと、5%はかなり固めに仕上がるが、その後の砧打で柔らかくしたのであろうか。あるいは、1反は裃袴のセット一式約17mくらいを指すのであろうか。この答えを出す作業も今後の課題となる。
 俗に「しけとり」と呼ばれる布の表面に出た余分な毛羽を鋏でもって取り去る作業は、今の葛布屋は誰でも行うことであり、それ専用の鋏も残されている。ただ、この道中着は葛糸の有様がみごとであることから、毛羽はそれ程出なかっただろうと思われる。

 以上が復元しようとしている道中着を観察、調査した結果分かったことである。
 では次に、製作の実際について述べる。

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