2008年2月11日 (月)

古事記

古事記は、和銅五年(西暦712年)に稗田阿禮が誦むところの古事(ふること)を朝臣太野安萬侶が記したとされる、日本最古の記述書であり神話である。

古事記成立40年前の西暦672年には、古代史上最大の内乱、壬申の乱が起こっている。
この乱は、天智天皇崩御後、その長子大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子との間に起こった皇位争いに端を発したもので、争いは1ヶ月にわたった。
結局、戦いは大友に対して反旗を翻した叔父に当たる大海人皇子側の勝利に終わり、大友は近江の宮で自害し、大海人は即位して天武天皇となり、飛鳥浄御原宮を建て、律令制の基を築いた。

稗田は天武天皇の近習で生まれつき聡明にして、一度聞いた事は違わず口に誦み忘れる事がなかった人らしい。
壬申の乱の後、大友側についたものたちは粛正され、おそらく地方の豪族たちの間でも相当の動揺が起こり、国は乱れ、秩序も乱れたに違いない。
朝廷内や各地の有力者の間に、ぶすぶすと煙を上げる乱後の燃え残りの火を鎮めるため、また、自らの皇位継承の正当性を決定つける為に、おそらく天武天皇は稗田にふることを読み習わせたのだと思う。
この時代、既に漢字は中国より入って来てはいるが、依然オーラルな大和言葉との擦り合わせが完全ではなく、文字に書き表す術は持っていなかった。
そこで、稗田は語り部として、臣下たちの集まる席で繰り返しこの読みならわしたふることを読誦する役を、天武帝によって担わされたと推測されるのである。
このふることが書き文字として表されるには、それより40年待たねばならなかった。
資料によると、稗田がふることを覚えたのが28歳、そしてそれが文字化されたのは40年後の68歳ということになる。
ふることが文字化される動機には、この稗田の年齢ということも大きな要因であったろうと思われる。

それ迄も、中国からわたって来たところの漢文を、変則的に大和言葉的に読み書きしようとする試みはなされて来ただろう。
漢字は3世紀の初め、応神天皇のころ既に朝鮮を経て論語と一緒にわたって来ている。
しかし、それから約500年の間漢字は筆写の対象ではあっても、記録をするためのテキストではなかった。
これより下る6世紀末から7世紀初頭、推古天皇の摂政であった聖徳太子(574〜622)が仏教にいたく傾倒し、607年に法隆寺を建てたと伝えられる。
そして太子は、法華経、維摩経、勝鬘経の注釈書「三強義疏」を著したとされる。。
おそらくこの書物は完璧な漢文体で著されているはずである。
当時、漢文はエリートたちの書き習わす、はっきり言ってしまえば仏教を勉強するための文字であったはずである。
漢字が大和言葉とすり合わされ、こなされ十分にオーラルな世界との接点を持って、書き言葉として使い心地よく昇華されるには聖徳太子からさらに100年を待たねばならない。
オーラルな大和言葉を漢字によって書き文字として著した、最大の功労者は太野安萬侶である。倉野憲司氏によれば『かくて安万侶は、古くから試みられた変則の漢字を、一層国語的表現になるよう苦心し、漢文の語序を破ったり、助詞や助動詞や敬譲語を表す文字を補ったりして、新しい変則の漢文を作り出したのである。」

仏教興隆の最大の拠点である法隆寺が焼き討ちにあい、聖徳太子の一門の人々と一緒に焼失したのが670年、その2年後には壬申の乱が起こっている。なんだかきな臭い。
この時代は、ふることに代表されるオーラルな神代の世界と、大陸から文字とともに入って来た仏教文化が激しくすり混ぜられ、新しい律令国家としての体制をなしていこうとする嵐のような過渡期であったといえよう。
私が、ここで感心するのは、当時の天皇を代表とする指導者たちが、仏教に帰依し、それを国家統一の大きな柱として組み入れていったにもかかわらず、自分たちのアイデンティティーである大和言葉を国の成り立ちの神話とともに普遍のものとして残したということである。
この後、日本は仏教とともに律令国家の体制を堅固なものとしつつ、自らのアイデンティティーを引き継いで、両者をすりあわせ統合し、新しい文化を創造するという実にすばらしいうねりを見せるのである。

言葉の面で見れば、太古からの「あいうえお」の発音がしっかり天界を映し出すものであったがゆえにこのような信じがたい止揚が可能なのだと思う。
このような、日本民族全体の文化の止揚はこの後も繰り返し歴史の上で起こっている。
明治維新しかり、第二次世界大戦後の再建しかり。
あいうえおについては、まだ蘊蓄を語りたいのだが、歴史的には秀真(ほつま)という真偽のまだ確定していない資料について言及しなければならなくなる。
また、フトマニというこれまた神代の占いについても語らなくては、真意が伝わらないので、また別の機会に述べたいと思う

明日からは、古事記の本文天地開闢の項と最近の量子力学「ひも理論」との近似について述べ、以降古事記の中で語られる糸や織り、植物についての部分を引用しながら考察を試みたいと思う。


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2007年12月21日 (金)

天津祝詞

今年も年の瀬が迫って来た。
今日は、天津祝詞をあげて、一年の大祓をしたいと思う。

天津祝詞

高天原に神留坐す(かみつまります)
神魯伎神魯美(かむろぎかむろみ)の詔(みこと)を以(もち)て
皇御祖神(すめみおやかむ)伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
筑紫の日向(ひむか)の橘の小戸の阿波岐原(あわぎはら)に
禊祓い給ふ時に生坐る(なりませる)祓戸の大神等
諸々の禍事罪穢れを祓いたまえ清め給えと申す事の由を
天津神国津神八百万の神等共に
天の斑駒(ふちこま)の耳振り立てて聞召せと
畏み畏みも白す

これを私流に解釈すると、こうなる。

いと高き天界に満ち満ちておいでになる宇宙の大神様
その神様の御意思通りに作られた日本の言葉
日本民族の大御祖先はこの言葉であります

八広がりに開けた何処も彼処も明るい精神の原っぱで
『あいうえお』の清音を声高らかにのりあげて
禊ぎ払いをする時に現れ出たる祓戸の大神たちよ
(この大神たちは人間から罪を持ち出し、呵々と飲み込み、跡形もなく消し去る三人の女神様である)
諸々の禍事罪穢れを祓いたまえ清め給えと申し上げるこの言葉を
天の神、地の神、八百万の神たち共々に
時間と空間の正しい秩序に従ってお聞き届け下さいと
畏まって申し上げます。


天津祝詞は奈良時代以前から成立していたもので、今でも大概の神社や宗教団体でのりあげられている最もポピュラーな祝詞である。
ここで注目するのは、日本語が神の世界の写し絵の如くに作られたという点である。
仏教伝来以前のいわゆる大和言葉には我々日本人の魂の緒がこもっていると思う。
祝詞が神様を前にして、感極まってのりあげられた言葉だとするなら、
今日の我々も又、毎日祝詞をあげながら自らの世界を作り、浄めている事になる。

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2007年12月20日 (木)

葛布の袍生地奉納

12月15日土曜日、事任神社に無事葛布の袍生地一反をお納めしてきた。

これより先に、今年の8月末、別に一領(高貴なお召し物は一領、二領と数えるものらしい。ちなみに領とは首の事である。)さる篤志家の方の御愛念により同神社にお納めさせていただいた。
この生地は、最初は袍として仕立てる予定であったが、神社様のご意向により「狩衣」にしたてられた。
狩衣は袍よりは軽装で大概の神仕えはこの衣装ですむのであるという。
しかし、正式の場合には袍という平安時代の貴族の正装を用いるとのこと。

そうしたところ、この狩衣をご覧になったもう一人の篤志家kさんから「この神社には二領の袍が必要です。」というお言葉をいただき、あと二領分の生地を織らせていただく運びとなった。
先日お納めしたのものは、二領のうちの一領分。
あともう一領は工房の織り姫様がただいま製織中であられます。

この二人の篤志家NさんとKさんは全く私どもを信用して、納期も出来た時でよい、できばえもおまかせしますという事で、奉納のその日迄反物をご覧にならなかった。
「神様への捧げものには一点の疑いも計算もないのです。」
とおっしゃるのである。

神様の御心をもちて、ますます身と心を浄め、葛布の道に進みたいと思う。

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2007年12月13日 (木)

遠州民芸協会同人展

今日から遠州民芸協会の同人展が12月17日迄
「アトリエぬいや」(浜松市中央区3−8−30 tel 053-457-4777 楽器博物館北向い側)
で行われています。
初日の今日は私が詰めておりますので皆様お越し下さい。お待ちしております。

昨日の搬入で思いがけない人にお会いしました。
以前から、浜松の草木染め工房「木綿花」を主催しておられる池谷昭三先生のところでお会いした事のある稲垣仁美さんも、この同人展に出展せられておりました。
まあ久しぶりと話がはずむうち、何とこの方は織物作家で私どもも存じている稲垣有里さんの妹さんだという事が分かったのです。
そういえば、楚々とした上品な美しさがお姉様とどことなく似ていらっしゃる。

稲垣仁美さんの作品は、絞りで草木を使った鮮やかな多色染めが特徴です。
高校の美術の講師をしながら作品を作りためているとの事。
なんだか応援してあげたい人の一人ではあります。

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2007年12月11日 (火)

沖縄自然布展

10月下旬沖縄自然布展に出展してきました。
この時は、娘も同伴させました。

かねてより、この日のために葛布の着物を着るべく、準備していました。
親方は、経手紡ぎ綿、憲法染め(藍下渋木鉄媒染)、私は、経絹原糸、緯葛と絹原糸を交互に織り込んだもの、白生地、というモノトーンのツーショット。
会場に着ていくと、思った通り、いえ、それ以上の反応がありました。
葛布の衣装を着た我々夫婦はとっても目立ちました。
色んな人から写真を撮らせてくれと申し込みがありました。

葛布の着尺が作られなくなり、その技術や方法が絶えてから約150年。
我々は150年前の技を復活させた事になります。
しかし、葛布を着るという事はあまりにも唐突なため、まだ一般には理解されていません。
真価を知っているのは、残念ながら私たちだけのようです。

実際に着てみて驚いた事は、着心地が大変良いということ。
特に体温調節をするらしく、10月末でもまだかなり暑かった沖縄で、私たちは汗をかきませんでした。

また、葛独特の光は周囲の目をひき、宮古上布手績み保存会の会長さんからは
「やっぱり生成りの着物は、糸のきれいさがそのまま出ていていいね。」
と褒められました。

これからさらに精進を重ね、江戸時代の葛布を完成させたいと思っています。
さらに、平安時代の延喜式に記載のある葛布の染めかた(紫と茜の貴族の夏の領)に挑戦し、最後は経緯葛の上古の織り方までたどり着きたいと思っています。

こういう風に自分のテーマが追求出来る環境にいる私は、とても幸せなのですが、この幸せを自分一人のものだけにしちゃもったいないですね。
今後は、自然布の仲間と、自然に生かされている喜びを増幅する大きな渦を巻き起こしたいと思っています。
私たちは、天からもう既に十分な恵みを与えられています。

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2007年12月10日 (月)

粟ン岳再訪その2

今日は元気に駆け回る犬たちと、粟ん岳の紅葉の美しさを画像で紹介します。
めざとく見つけた野いちごを手にする親方もご覧下さい。Dscf1560_3
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2007年12月 9日 (日)

粟ン岳再訪

久しぶりに粟ン岳へ行った。
運転手は旦那、同乗者はゴールデンレトリバー二匹。
風のない暖かな日、陽光が眩しい程輝いている。
 
粟ン岳の頂上からはこの辺りの地形が一望の下に見渡せる。
東を見れば、遠く富士山の輪郭が浮かび上がっており、遠州灘の海水のきらめきも分かる。
大きな龍のように臥しているのは大井川だ。
真下には切り立った崖のような地形の下に点在する農家の家並。
小夜の中山、日坂、事任神社の本宮の森も見える。
東は浜松で最も高いアクトタワーもシルエットを浮かび上がらせている。

太古の昔から、この山はこの辺り一体を見渡す重要な役割を持っていた。
頂上には磐座(いわくら)とよばれる巨石群が林立しており、訪れた人を圧倒する。
ここは、年代も分からないほど昔から古式の祭事が行われていた神聖な霊スポットである。
阿波忌部氏もこの山と磐座をご神体とし、事任神社本宮の森から遥拝していた。
地図で見ると磐座と神社本宮、事任神社本殿は南北に一直線で結ばれている。

粟ン岳はそこから地形を見渡せるのみならず、海を航海する船からもよい目印の役目をしていた。
おそらく遠州灘を航海する忌部氏の船を山上からいち早く確認し、狼煙を上げるなどして合図を送り合ったのではあるまいか。
その船には、粟ン岳周辺で作られた葛布の衣なども朝廷への貢納物として積まれていったに違いない。

山はもう12月というのに秋であった。
全葉黄色く色付いた大銀杏のみごとさ。
地面は黄色い絨毯と化している。
二匹の犬たちは喜んで駆け回る。
もう初老の域に入っているのに、全くこの犬たちは元気の固まりのようだ。

山中で野いちごを見つける。
食べてみるとなかなかいける。

この日はそれから粟ン岳西側の農道を降り、倉見というこれまた昔の葛布の産地を訪ねた後、事任神社を参拝して帰路についた。

人も犬も大喜びの一日だった。


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2007年10月17日 (水)

弟の快挙

三歳違いの弟が、今年も又関西地区代表として、合唱コンクール全国大会に出る。
彼が指導しているのは、神戸のN中学校、わずか11名の女の子ばかりのコーラス部だ。

先日送られて来たCDを聞いた。
1曲目はスウェーデンの美しく神秘的な自然を歌った曲をアカペラで歌う。
出だしが低音から始まり、中音高音が順次それに重なるように音を描き出す。
静かな水底から、何か例えようのない美しい生き物が、わき上がってくるような始動を感じる。
透き通った北欧の空気とムーミントロールの妖精の世界が声を通じて伝わってくる。
去年も長男を伴って全国大会を聞きにいったが、こんな不思議な世界を創っている合唱団は外にはなかった。
その時は、N中学はドイツの作曲家の「夜」という題名のこれまた摩訶不思議な曲を歌った。
わずか十数人の参加チーム中最も小さい合唱団だった。
惜しくも去年は入賞を逃したが、今年は人数がさらに少なくなったとはいえ、以前よりさらに完成度が高い。
きっと入賞間違いない。

2曲目はミサ曲。
私はこの曲が好きだ。
静謐な空間に流れる完璧な和音の流れ。
我というものをなくし、大いなるものと一体になった声の美しさ。
まだ誰も起きてこない、静かな朝の時間にこのコーラスを聴くと、身も心も清まる気がする。
全体に中低音がしっかり支えているのがすごと思った。
中学生の女の子がこんなすてきな低音を出せるのか、と感嘆した。
男の指導者でなくては出せない声だと思う。

全国大会は今月28日、岩手県盛岡で行われる。
私はちょうど沖縄で仕事中で行けないけれど、彼等の出番の時間には心で応援したいと思う。


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2007年9月23日 (日)

葛花(かっか)

「葛花」で検索してみたら大正製薬のHPでおもしろい記事を見つけた。
二日酔いに効く事は以前から知られていたが、それ以外にダイエット効果もあるとのこと。
何でもイソフラボンとサポニンという成分を多量に含み、血管内の脂肪を洗い流してくれるので太りにくい体質になるとか。
これはもう、真葛原に出て葛花を取るっきゃない!
連れ合いと二人で休みの日、籠を腰に付けて野に繰り出した。
今は、葛花の真っ盛りである。
むせ返るような葛花のあまい香りがする。
一カ所花がかたまって咲いているところを見つけ、その辺りの葉をかき分けると、無数の葛花が咲いている。
二人で小一時間程取って、大きな糊桶二杯分くらいたまった。

連れ合い曰く
「無理して外に求めなくても、こうやって足下にはちゃんと供給されているんだよなあ。まさに竜宮無限供給とはこのことだよなあ。」

写真は、採取してきた葛花を干しているところ。
保存して1年分とし、少しずつ煎じて飲むつもりです。

葛花は今ならまだ野に行けば咲いています。
ご興味おありの方、お試し下さい。
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2007年9月22日 (土)

宮坂製糸余話

「蚕は栄養価が高くて、食べると腸が元気になるんですよ。どうです一つ召し上がってみませんか?」
宮坂さんは、カッターナイフで器用に繭に切り目を入れてくれる。
中には確かにからからに乾燥した蚕が入っている。
決して食欲がわくような形状ではない。
むしろグロテスクだ。
誘われなければ、手を出せるような姿ではない。
手のひらに出して、婿の高橋さんが用意してくれた味塩を少し付けて食してみる。
「ん?  意外とおいしい!  奥深いうまみがある!」
今年22歳になるうちの娘もうまい、と言っていた。
「この辺じゃあ、普通にスーパーに袋入りの蚕がありますよ。」
とのこと。
さすが、製糸のメッカ岡谷だけの事はある。
しかし、シルクアレルギーの岩崎さんだけは最後までからからの蚕とにらめっこしていた。

京都組の二人からは
「そういえば、ようじ屋さんに繭おいてはったなあ。これで顔こすったらつるつるになるっていうてはったわ。」
と重要な情報が入った。
ようじ屋さんといえば有名な京都の油取り紙屋さんである。
そうか、繭で直接顔をこすっても良いんだ! 

蚕って繭から糸がとれてお肌にも良いし、中の虫は重要なタンパク源になってお腹を丈夫にするし、捨てるところのないありがたい虫なんですね。

「セリシンがついていた方が体にも良いし、丈夫です。紫外線や水にも強いんですよ。最近ではセリシンをぬかない糸の利用法が考えられています。柔らかくするために砧打をする方法も試みられているんですよ。」
とは、宮坂さんの言。
私は、これこそ我が意を得たり!と嬉しかった。
実は以前から
「繭は、夏の紫外線や雨から完璧に中の蚕をを守っているのだから、シルクが熱や水に弱いというのはおかしい」
と思っていた。
「セリシンを取ってしまうからいけないんじゃないか。柔らかくするというだけの目的のために、せっかく人体に有用なものをとってしまうのはもったいない」
そこで最近は、総て練り抜きしない原糸のままの絹糸を使うようにしています。
糊付けする必要がないし、お肌にもいいので私はこの使い方が気に入っています。
経に絹糸原糸を使った葛布のコートは、繭のようにやさしく人間を守ってくれると思います。Dscf1359

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